石垣焼の歴史とルーツ

2016年7月26日

与論島

石垣焼とは、陶器とガラスを同時に焼き、化学反応を起こさせて綺麗な青い発色を施したもの。

石垣市と岡崎市が姉妹都市であることから、もっとこの焼き物について知ってもらおうと美ら・琉でも販売しております。

そんな石垣焼も、2016年フランスで開催されたカルーセル・ルーブル展で金賞を受賞し、世界的評価を得られました。

しかし、ここまで来るのにとても多くの苦難があったそうです。

今回はこの石垣焼の歴史やルーツについて、石垣焼窯元・金子晴彦の父である金子喜八郎からお話しします。

 

いつもの食卓に いつもと違う食器で 新たな彩りを

写真家、金子喜八郎

当時写真家だった金子喜八郎(ペンネーム:金子清美)。

昭和時代にリアリズムで活躍した日本の写真家、土門拳(どもんけん)の弟子をしており、作品【古寺巡礼】などの撮影アシスタントをしていました。

撮影の仕事で与論島に通う内にその美しい海に魅せられた喜八郎は、与論島を含む奄美列島全体の貧困を何とかしたいと考えるようになりました。

そこで喜八郎は、自分の写真の技術を使って観光業を活性化しようと考え、師匠である土門拳に別れを告げます。

島の写真を展示した個展を全国で開き、メディアやポスターに掲載してもらい、与論島の名を全国へ広めました。

写真家から陶芸家へ

観光業を推し進めていくうえで、奄美列島に関するお土産や民芸品はまだありませんでした。

そこで昔、仕事で京都に滞在していたときに神社仏閣で目にした天目茶碗を思いつきました。

天目茶碗とは、茶の名産地として知られた古来中国の天目山で作られた茶碗のこと。

茶碗に天目釉(てんもくゆう)と呼ばれる鉄釉を塗り、銀の斑点を浮かび上がらせる希少な焼き物です。

それが沖縄と同じ緯度にある中国の福建省の建窯(けんよう)で作られていると知り、奄美列島を代表するお土産に決定しました。

喜八郎はすぐさま与論島に窯を作り、琉球を中心に集めた鉱石を釉薬として試作品を作り始めました。

陶器とガラスが融合したよろん焼の完成

喜八郎の子・晴彦が幼少の頃、喜八郎に「これを入れて焼いてみて」と眼鏡のように遊んでいた牛乳瓶の底を渡してきました。

「器の底にガラスが溶けてくっついているだけだろう。」

そう深く考えず、仕方なく器の中に入れて焼いてみたところ、そこには驚きの光景が広がっていました。

焼き上がったその器の中には、ガラスが薄いブルーに発色し、まるでコバルトブルーの海のような光景。

世界で初めてよろん焼が成功した瞬間でした。

そこから商品化に至るまで、失敗の山は続きました。

6年かけて初めて商品として価値のあるものが完成し、金子喜八郎(陶芸家名:金子恭雨)とよろん焼窯元は全国に名を轟かせることとなりました。

石垣焼としての再出発

晴彦が19歳のとき、喜八郎の元で修業を始めます。

それから19年後。

「与論島の新しい産業に」という父の哲学と信念を引き継ぎ、与論島のように海が美しく、ガラスの材料となる鉱石が多く採取できる石垣島へ新たな窯を開きました。

その1年後。

喜八郎は自分の想いを息子に託し、癌で亡くなりました。

晴彦は喜八郎の想いを胸に、石垣焼窯元として新たな出発をしました。

金子晴彦の想い

私には子供がいません。この石垣焼が私の子供たちです。石垣焼とつけたのは琉球のどこかの地名をこの美しい焼き物に残さなければならないと言う使命を感じたからです。焼き物は大切に保管すれば200万年存続するそうです。人は感動した作品がどこで出来ているのか知りたいものです。それはついつい器の裏を見ることで、石垣という地名を見ることになります。そして文化の旅の始まりがスタートすればと考えております。これから例えば3,000年たってもこの美しい沖縄の海を見ていただくことで、日本へ興味を頂くために南の果ての石垣という地名を使用しました。この地名から世界の文化人がこの八重山へ、沖縄へそして日本へ来ていただくきっかけになればと願っております。エジプトのピラミッドのように私の子供達の石垣焼が日本のシンボルのひとつとなり、また石垣焼がメッセンジャーとなり世界へ羽ばたいてくれることを願い、一人でも多くの世界の人々に感動と安らぎを与えられたらと願っております。

引用元:http://www.ishigaki-yaki.com/isigaki.html

石垣焼

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